練馬区大泉の歴史

「ねりま」という地名の由来

  • 関東ローム層の赤土を煉ったところを「ねりま」と言った。
  • 石神井川流域の低地の奥まったところに沼=「根沼」多かった。
  • 奈良時代、武蔵野国に「のりぬま」という宿駅があった。
  • 中世、豊島氏の家臣に馬術の名人が居り、馬を馴らすことを「ねる」と言った。

などの諸説が有り、定説はありません。

大泉の歴史

江戸時代は豊島郡に属し、土支田村上組といった。土支田村は大村であったので上下両組に分かれていた。明治初年、独立して上土支田村となった。

明治22年、町村制で石神井村と合併、同村大字上土支田となった。同じとき、埼玉県新座郡に属していた小榑(こぐれ)村と橋戸村が合併して榑橋(くれはし)村となったことは前にたびたびふれた。
そのころ、上土支田には妙延寺(東大泉3-16)に豊西小学校が、榑橋村には本照寺(西大泉3-11)に榑橋小学校があった。当時の学校費は村費全体の5割ないし8割にも当たっていた。両校の距離は1kmもない。もし両村が合併すれば、小学校は一つですみ、村の経費は大幅に節約できる、と考えた。
陳情が実って、榑橋村は東京府に編入、上土支田と合併して大泉村が成立した。明治24年のことである。新しい大泉村は従来の2校を廃して、村の中央に新たに泉小学校を建てた。今の大泉小学校の前身である。

昭和7年、板橋区成立のとき東大泉町となり、練馬区独立後も踏襲。昭和55年、住居表示が実施された。

大正15年、武蔵野の野趣豊かなこの地に植物学者、牧野富太郎博士が居を移した。牧野記念庭園(東大泉6-34)には博士遺愛の草や木が四季折々の花を咲かせる。

ねりま区報 昭和59年12月21日掲載

名所・旧跡

牧野記念庭園

関連サイト

1958年(昭和33年)に植物学者牧野富太郎の業績を記念する庭園及び記念館として練馬区東大泉に「牧野記念庭園」として開園した。 文化庁登録記念物(遺跡及び名勝地)に指定されている。

園内には300種近い植物があり、牧野博士が命名したセンダイヤザクラや仙台で発見し亡き妻の名をつけたスエコザサ等が植えられている。